高取城址にて日本最強の城に、圧倒された【ルート】
高取町観光駐車場-武家屋敷-水車小屋-黒門跡-七曲り-一升坂-
岩屋不動尊(立ち寄り)-猿石-ニノ門跡-国見櫓跡(立ち寄り)-
矢場門跡-松ノ門跡-千早門跡-大手門跡-本丸-七ツ井戸-(林道)
-壺阪寺-駐車場高取城趾とは昨年12月15日のことである。
金剛山に登った後、二座目ということで山登りがメインなので
正面正攻法である城下町歩きを避け、いわゆるバックヤード的な
壺阪寺側の五百羅漢近くの登山口より入山。
高取城趾というと紅葉シーズンに軽くハイキング程度に歩く
というイメージを持っていただけで、城跡には石塁が少し残ってるだけの
山なのか公園なのか何なのか、山登り的なボリュームはあるのか?という
中途半端なところじゃ?という疑問が先行してしまっていたので、
今回も二座目に設定するなど冷やかし程度にと思っていた。
ちなみに、どうやって設計や建設をしたんやろ~ってところに関心はあるが、
城や寺社仏閣自体にはほとんど興味がない。
五百羅漢でいきなり分岐があり、さらに奥の羅漢像があるところを通って
枝道多数確認できる植林帯の中を忠実に歩く。
舗装林道に一瞬合流するも再び山道に入り、壺坂口門から入城した。
本来、着いたと表現するところが、入城という言葉のほうが正しいように思えるから不思議だ。
そんな威圧感のある佇まいであった。
高取城は壺坂口門あたりから上に存在していたのではないということが
奥に入るに従って明らかになってくる。
「なんだこれは!!」と呆気にとられる、他を寄せ付けない石塁の規模である。
しかもそれらがゆっくりと時の流れに飲み込まれるよう、
半ば手付かずの状態のままで静かに風化していっているような
城跡自体が何か物言いたげなオーラが漂いっぱなしで、
こんなにも自由にほったらかしでええの?とさえ思えた。
つまり何の保存も保護もされていない、自然のままの状態に近かったのが
より印象を強いものにした。
城というと大阪城はもとより、松本城、彦根城、名古屋城、岸和田城、
竹田城跡などなど興味はなくとも行ったことがある城の数は枚挙にいとまがないが、
想像をここまで裏切る山城が、しかもこんな近くにあったなんて。。
行ってみないとわからない典型的な例になってしまった。
そんなこんなで、これはもう一度きちんと城下町から歩くべきだと思い、
持てる撮影機材を総動員して出直そうと思っていたところ、
折しも昨年末、たまたまテレビを点けたところに
「あなたも絶対行きたくなる!日本「最強の城」スペシャル」
なる番組がやっていて、今回の高取城が第1位に輝いたのだ。
これは大挙してお城フェチの方々が訪れるんじゃないか、
そうなるとゆっくり撮影なんて無理だよなぁ。
さらには、あの
へっぽこ登山さんもこのタイミングで。(≧∇≦)
そういうわけで少し控えめに、動画の一部を切り出したような表現の写真に徹した。
あ、ちなみに城下町も古き良き懐かしい趣があって良かった。
そんな今回の写真は以下より。(多いよ~)

高取城図 圧倒的スケールだ。 ※高取町観光ガイドより引用

観光駐車場付近にあった高取城CG再現図

時計回り周回(GARMIN GPSログ)


高取町観光駐車場に駐車させていただいた

松ノ門のレプリカ

築100年以上経ってそうな民家

水車小屋

地域の回覧ポストのようなもの

ぶどうの房のようなのが鈴なりの木

宗泉寺へと続く舗装路

黒門跡を過ぎてすぐのところ

ふと右上を見上げると・・

覆いかぶさってきそうな植林

舗装路は宗泉寺(右へ)へ

舗装路と分かれていよいよ山道へ


文化財指定 昭和二十八年とある

七曲り


枝打ちがされず放置されて薄暗くなった植林帯(右側)


このあたりから雨音が落ち葉を通じて聞こえてくる

石塁があちこちに見受けられる

一升坂

近いようで遠いような120m先の外れに岩屋不動があるというので行ってみた

文政六年(1823年)とある

岩屋不動

石像の奥に何やら穴の空いた岩があるので見に行ってみたら何もなかった
先程の石像が納められていたのだろうか

百度石 ここはどういう場所だったのだろうか

ルートまで戻ってきた
今日はどんよりと今にも泣き出しそうな空模様で雪がハラハラと。

カエルか何かか?と思いきや・・・

猿石だった
飛鳥の猿石と同様に、現在の明日香村平田から掘り出され、
高取城築城の際に石垣材として運ばれる途中にこの場所に置かれたそうである。

ほどなく「ニノ門跡」に到着。

左手に黒い池があったので行ってみた

当時からあったのだろうか、石垣も見られる

さらに進んで・・
一部、石塁が崩落しかかっている箇所があった

杉が育ってしまって石塁が隠れてしまっている

右へ120m逸れると「国見櫓」があるらしい。
またもや120mである。
岩屋不動までの120mで距離感がつかめたので行ってみた。

あの先端が国見櫓跡だろう

国見櫓跡

あいにくの降雪で展望が厳しかった

ここからは夜景も楽しめるらしいが、夜に来るのは怖そうだ
涼さんのサイトや「
関西ナイトハイキング」には掲載が無かった。

さらにさらに登って行く。


松ノ門跡 スタート地点付近にあったレプリカの門があった場所だ

さらに登る・・
攻めるまえに兵力が削がれそうなスケールだ。


千早門跡 右へ左へと迂回させられる

広くてスッキリした場所は、右へ行くと壺坂口門、正面が大手門だ。

いざ大手門へ



大手門跡と書かれている。

二ノ丸御殿があったほうへ近づく。

正面は十三間多門跡
ふと左手を見やると、存在感のある大木があった。

樹齢数百年はあるだろう

でらいぞ

十三間多門跡前へと復帰。

ここに二ノ丸御殿があったらしい。

十五間多門跡 さぁ、本丸を目指して!







門柱でも立てられていたのであろう台座 何やら文字も掘られてそうだ。

「巽高取 雪かとみれば 雪でござらぬ 土佐の城」と彫られてあった
遠くから高取城を眺めると、しっくいの白壁が山に降り積もった雪と見紛うようだったのだろう

この上が本丸だ

チェーンソーアート

ここにあった切り株を利用して作られたものらしい

切り株の上に載せられているのではなく、切り出されて一体になっている、と思う

さらに迂回させられて・・

岩をかち割った跡

日の出スポットらしい 大峰方向を望む

広い・・

いよいよ本丸へ

三角点はこの上

本丸跡から振り返る

高い・・

※安全に十分配慮して撮影しております



そろそろ下山

クマさん、さよオナラ

雪が降り荒ぶ




重機の無い時代、どれくらいの工期がかかったことだろう

井戸を抱かえこむ木の根

バックヤードの舗装林道で時短下山

林道上の最寄りの取り付きから五百羅漢へ

さらに奥にあるのが先像如来、来迎如来、他にも当時の名残の石仏あり

舗装路から 壺坂寺を眼下に、晴れていると葛城・二上山が一望できる

壺阪寺の入口付近からのハイキング道へ

舗装路を避けて町に入ると、昭和時代の懐かしいような看板などがあったかと思えば
そこはタイムスリップしたかのような世界
そしてここは明治時代か?!

これは大正時代か昭和初期か?

こんどは幕末か!
ようやく駐車地に戻ってきてやれやれと思いきや、いきなり辻斬りに出くわす。
「この先通すわけにはいかぬ」と行く手を阻むではないか。

仕方がないので本気で戦うことになった

口ほどにもないヤツだった。。
<余談>
壺坂というとまず思い浮かぶ古い記憶がある。
12歳年下の妹が小学生だった頃、アトピーでとても苦しんでいた。
その頃に父親が若くして亡くなったため、
車で送迎するような用事は自分しかおらず母親からよく頼まれた。
ネットなどの情報収集手段も無い時代にどうやって知ったのか
皮膚病で有名な医者といえば壺坂のそこだったらしい。
当時の自分は、まだ車の運転も不慣れで水越トンネルなど道路も整備されておらず
紙地図を頼りに水越峠か竹内峠を越えて壺坂まで行くことが結構な遠出だった。
到着してからも全国から尋ねてこられる患者さんたちの待ち行列で何時間も待たされたのは覚えている。
通った記憶が残ってるくらいなので一度や二度ではなったように思う。
ちなみに妹のアトピーは今では寛解している。
今回の高取城趾を城下町から歩く起点が壺坂だったことから、
名前も忘れたけどあの頃の医院はもう残ってないだろうなぁとダメ元で探してみたら
途中、侍に行く手を阻まれるなどの困難?の果てについに発見!
感慨無量だった。
やはりこの城下町は時間が止まっているとしか思えない。

25年ほど経た今もまだあった石川醫院 ※醫院=医院の旧字体