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山は歩くだけじゃもったいない、その時々のナニカを発見し、記憶の定着のためにもカメラを持とう。

上赤阪城址(本丸)とは 

20090910-1.jpg
上赤阪城址 ※2009.8.30撮影

坊領ルートに「上赤阪城址(本丸)」という唯一の展望場所がある。
こんな誰も来そうにない所に河内平野が眺望できる所があるのだ。
きっとPL花火がばっちり見れることだろうが、
果たしてわざわざここまで来る人が居るだろうか。
虫やヘビにも悩まされるだろう。

そんな「上赤阪城址(本丸)」に関する記事が掲載されました。


(ゆかりを訪ねて:1)楠木正成 地の利得た倒幕の名将 【大阪】
2009/09/04 朝日新聞 夕刊 4ページ

 山中の尾根筋を走る道を汗だくになって上がっていくと、登り切ったところに「本丸」の
標識が見えた。国史跡・楠木(くすのき)城跡(大阪府千早赤阪村)を示す石碑の向こうに
広がる河内平野の眺望。かなたに大阪の高層ビル街がぼんやりと浮かぶ。
 ここに城を築いた鎌倉末期の武将、楠木正成(まさしげ)は、どんな思いでこの景色を見
つめたのか。上赤阪城とも呼ばれる城は、さらに山深い地に築かれた千早城とともに、幕府
軍に対する「防衛ライン」を形成していた。
 正成をめぐっては戦前、「七生報国」の決意で後醍醐天皇への忠義を貫いたとする「忠臣
伝説」が広まった。戦後は、あまりにも軍国主義と強く結びついたイメージのために、その
実像の研究は敬遠されてきた。
 実は、その生い立ちもよく分かっていない。初めて史料に登場するのは1331年。「楠
兵衛尉(くすのきひょうえのじょう)」という悪党(既成権力への反抗者)が和泉国で略奪
を働いた、との記録が残る。この年、後醍醐天皇側について幕府に反旗を翻すが、歴史の表
舞台で活躍したのは、湊川の戦いで自刃するまでのわずか6年だ。
 それでも正成の名は天下に鳴り響く。千早城に立てこもり、大石や油とたいまつを浴びせ
る奇策で大軍を100日余も足止めさせて、幕府滅亡に貢献した。千早城は楠木城の南東約
4キロ。城跡に至るには500段以上の急な石段を登らねばならない。こんな急斜面から石
を落とされたら、下の敵はひとたまりもない、と実感した。
 幕府軍と渡り合う名将の姿は、当時の人々に強烈な印象を与えた。籠城(ろうじょう)戦
が2カ月に及ぶころ、九州・博多の僧侶は「金剛山は未(いま)だ破れず」と驚きを込めて
日記につづっている。幕府側もメンツにかけて、この小さな山城に兵力の大半を投入せねば
ならなくなったのだろう。
 ふと思う。正成を死に追いやったのは、天皇への忠義というより、肥大化した自分自身の
イメージだったのでは、と。
 3年後、摂津国で足利軍を迎え撃つよう天皇に命じられた正成は、敵の戦力が優位とみて、
京都に誘い込む作戦を提案したが、却下され、やむなく戦場に赴く。英雄視する周囲の期待
に、彼は逆らえなくなっていたのかもしれない。
 城跡に立つ千早神社の前で夕暮れの涼風を感じながら、そんな空想にとらわれた。
 (文・今井邦彦 写真・荒元忠彦)
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