金剛山を大阪側から登るルートに文殊岩を通るルートがある。
文殊、つまり知恵の神様として祀ってある巨岩があるのは知っていたが、
受験や入試とは縁もほど遠くなって久しいことから、
あえてじっくり眺めたこともなければ、写真に撮ったこともない。
そんな文殊岩にまつわる記事らしきものを見つけました。
あれって、転法輪寺境内の南側に位置するんでしたっけ。
修験はトレーニング
護摩(ごま)はキャンプファイアー かぁ
なるほど。
詳細は以下より。
金剛山 役小角の修験の舞台(休日探検)1992/09/04 朝日新聞 夕刊 14ページより引用 えんのおづぬ。役小角、と書く。1300年ほど昔、金剛山(1,125メートル)
一帯で修行を積んでいたという伝説の行者である。つむじ風のように山を駆け巡って、
呪術(じゅじゅつ)をあやつり、諸神を自在に従えたらしい。いにしえのスーパーマンの
影を追って、秋風の立ちはじめた杉木立の森を歩いた。(加来誠)
大阪と奈良の府県境にあり、都心近郊のハイキングコースとしてにぎわう金剛山は、も
とは信仰の山だ。大阪側の千早赤阪村から山頂に向かう。ブナの原生林を見ながら、セミ
の鳴き声でリズムを取って、足を運んだ。登るにつれ、尾根を越える風が、額の汗に冷ん
やりとくる。
小角の行場は、頂上の真言宗・転法輪寺の境内を南に5分ほど下った道外れに、ひっそ
り残っていた。こけむした一枚岩に、ほこらが置かれ、行者の知恵にあやかろうと「受験
必勝」のお札が供えられていた。
《「続日本紀」や「日本霊異記」などに登場する役小角は、大和朝廷で反体制派だった
葛城氏の一派、鴨氏の出身という。16歳から30年間、金剛山域で修行を重ねて「超能
力」を磨き、後に修験道の根本道場になった奈良・大峰山や熊野三山なども開拓した》
奈良県御所市の生誕地に建つ本山修験宗・吉祥草寺に小角像があると聞き、いったん山
を下った。
京都・聖護院から7年前にこの寺に移り、一人暮らしの荒井真明住職(75)は、境内
の松の木によじ登って枝を整えていた。あいさつをすると、ひらりと飛んで根元に下り立
った。
小角を「大先達」と呼ぶ住職は、福井県に生まれ、18歳で修験の道に入った。経文を
読み、1カ月を4、5万円で暮らす質素な生活。「大先達に一歩でも半歩でも近づきた
い」と念じながら、年のせいで山の修行がままならなくなったことを、少し悔やんだ。
《小角の逸話には虚実が入り交じる。例えば――自分に従わない神に呪術をかけたため
に一時期、伊豆大島に流されたが、そこでも連夜、海を駆けて富士山に登り、そしらぬ顔
で大島に舞い戻ったそうな》
薄暗い本堂で対面した小角像は、なるほど、威厳に満ちていた。
かつては、紀淡海峡の友ケ島から和泉山脈、金剛、葛城山を越えて大和川に至る100
キロ超の修験の道程が栄えた。けれど、明治維新の廃仏毀釈(きしゃく)で衰退。いまで
は、小角の命日の7月7日に金剛山頂で営まれる「れんげ大祭」に真言、天台両宗の山伏
が集まる程度という。
金剛山中で白装束の人と出会うのはまれだが、その代わりに健康登山のハイカーで連日
にぎわい、登山回数を競う「金剛錬成会」という愛好会もある。
山頂の葛木神社に住んで60年の葛城貢宮司(87)は、言った。「カタカナで書くと
修験はトレーニング、護摩(ごま)はキャンプファイアー。修験道とは、足腰を鍛え、い
い空気を吸って健康になれという教えで、現代にも生きている」
後日、再び早朝の山頂に立ち、退職後に登り始めて「今日が1201回目」という千早
赤阪村の久万進さん(66)に出会った。「1時間ほどかけて毎日来ている。苦行とは思
わない」と、満足そうにベンチで汗をぬぐうのだった。
※あの文殊岩って役小角の行場だったんですね。
金剛山 役小角の修験の舞台(休日探検)1992/09/04 朝日新聞 夕刊 14ページより引用 えんのおづぬ。役小角、と書く。1300年ほど昔、金剛山(1,125メートル)
一帯で修行を積んでいたという伝説の行者である。つむじ風のように山を駆け巡って、
呪術(じゅじゅつ)をあやつり、諸神を自在に従えたらしい。いにしえのスーパーマンの
影を追って、秋風の立ちはじめた杉木立の森を歩いた。(加来誠)
大阪と奈良の府県境にあり、都心近郊のハイキングコースとしてにぎわう金剛山は、も
とは信仰の山だ。大阪側の千早赤阪村から山頂に向かう。ブナの原生林を見ながら、セミ
の鳴き声でリズムを取って、足を運んだ。登るにつれ、尾根を越える風が、額の汗に冷ん
やりとくる。
小角の行場は、頂上の真言宗・転法輪寺の境内を南に5分ほど下った道外れに、ひっそ
り残っていた。こけむした一枚岩に、ほこらが置かれ、行者の知恵にあやかろうと「受験
必勝」のお札が供えられていた。
《「続日本紀」や「日本霊異記」などに登場する役小角は、大和朝廷で反体制派だった
葛城氏の一派、鴨氏の出身という。16歳から30年間、金剛山域で修行を重ねて「超能
力」を磨き、後に修験道の根本道場になった奈良・大峰山や熊野三山なども開拓した》
奈良県御所市の生誕地に建つ本山修験宗・吉祥草寺に小角像があると聞き、いったん山
を下った。
京都・聖護院から7年前にこの寺に移り、一人暮らしの荒井真明住職(75)は、境内
の松の木によじ登って枝を整えていた。あいさつをすると、ひらりと飛んで根元に下り立
った。
小角を「大先達」と呼ぶ住職は、福井県に生まれ、18歳で修験の道に入った。経文を
読み、1カ月を4、5万円で暮らす質素な生活。「大先達に一歩でも半歩でも近づきた
い」と念じながら、年のせいで山の修行がままならなくなったことを、少し悔やんだ。
《小角の逸話には虚実が入り交じる。例えば――自分に従わない神に呪術をかけたため
に一時期、伊豆大島に流されたが、そこでも連夜、海を駆けて富士山に登り、そしらぬ顔
で大島に舞い戻ったそうな》
薄暗い本堂で対面した小角像は、なるほど、威厳に満ちていた。
かつては、紀淡海峡の友ケ島から和泉山脈、金剛、葛城山を越えて大和川に至る100
キロ超の修験の道程が栄えた。けれど、明治維新の廃仏毀釈(きしゃく)で衰退。いまで
は、小角の命日の7月7日に金剛山頂で営まれる「れんげ大祭」に真言、天台両宗の山伏
が集まる程度という。
金剛山中で白装束の人と出会うのはまれだが、その代わりに健康登山のハイカーで連日
にぎわい、登山回数を競う「金剛錬成会」という愛好会もある。
山頂の葛木神社に住んで60年の葛城貢宮司(87)は、言った。「カタカナで書くと
修験はトレーニング、護摩(ごま)はキャンプファイアー。修験道とは、足腰を鍛え、い
い空気を吸って健康になれという教えで、現代にも生きている」
後日、再び早朝の山頂に立ち、退職後に登り始めて「今日が1201回目」という千早
赤阪村の久万進さん(66)に出会った。「1時間ほどかけて毎日来ている。苦行とは思
わない」と、満足そうにベンチで汗をぬぐうのだった。
※あの文殊岩って役小角の行場だったんですね。
登ったすぐの山行紀行文は鮮度が高いし、画像がきれいですから・・・。
キバラーさん、今年は「鮮度」で行きましょう!?
私は、「熟成」で・・・(^^ゞ
山頂のカップめんは最高です!?